
「どうやって描いたのか、自分でもよくわからない」
完成したキャンバスを前にして、そう呆然としながらも、胸の奥から湧き上がる震えるような感動を覚える瞬間が時々ある。
狙い通りのラインが引けたからでもないし、計算通りに色を置けたからでもない。ただ「自分の感覚」と「手」、そして「絵の具」がひとつになって、頭の理屈を超えたところで画面の上に奇跡みたいな現象が起きる。そのとき、自分は自分の絵の「一番最初のファン」として、ただただ魅了されてしまう。
写実を超えた「空気感」を描きたい
写真みたいに精密な油絵はたくさんあるけれど、どれだけ技術がすごくて緻密でも、それがただの現実の模写だと、なぜかあまり惹かれないし感動もしない。
自分が描きたいのは、目に見える物の形そのものじゃなくて、その場を包んでいる「目に見えない空気感」だ。
- 空間に充満する光の粒子
- 水面を渡っていく風の冷たさや揺らぎ
- 風景の奥に潜んでいる静けさや温度
形をなぞるんじゃない。自分のからだ全体で世界をどう受け止めて、どう感じているか。その感覚の密度をそのまま絵の具に変換していくことこそが、自分にとっての絵を描く面白さだと思っている。
人一倍鋭い感性を、ただのエンジンとして使う
自分には、光の粒子の揺らぎや音の響き、空気の密度、におい等を人一倍鋭く拾ってしまう感覚がある。悪く言うと単純に感覚過敏な性質なのである。色々なものが同時に感覚として襲ってくる感覚である。なので、大勢の飲み会とかは苦手なのである。それはただ自分という人間が世界を感じるための身体的なクセみたいなものであって、油絵を描くうえでは、絵の裏側で動いているエンジンに過ぎない。
絵を描いていない「沈黙と蓄積の時期」であっても、頭の中では光や空気の情報が圧倒的な解像度で組み立てられていて、イメージがどんどん深く成熟していく。
そのイメージが満ちて手が勝手に「自動書記」みたいに動き出す瞬間を、ただ静かに待つ。いま、自分の描き方は少しずつ本当の成熟に向かっている気がする。
自分の方法で描き切るという確信
モネたちが光を追い求めたように、自分もまた、自分だけの言葉と方法で画面を描き切りたい。
誰かのやり方を真似する必要もないし、世間の評価に合わせた理由付けなんて要らない。自分自身が世界で一番のファンでいられて、画面の上に起きる現象に誰よりも感動できること。その軸さえブレなければ、絵は勝手に力強く立ち上がってくれる。
頭の中でどんどん深まっているこの鮮やかなイメージが、キャンバスの上に溢れ出して、夢に見たような「傑作」になって現れる瞬間を、自分自身が一番楽しみにしている。時々ではなく、当たり前にそうしたことが出来るようになりたい。





